まるさんかくしかく
京都は蒸し蒸しした天気が続いています。蝉の声も聞き始めましたよ・・。
さてさて、今日は石原裕次郎の23回忌中継は見ずに、来る8日に行われるお盆法要の準備をずっとしておりました。
椅子や机を並べ替えたり、法要の道具を出してきたり、本堂のお飾りをしたり等々。もちろんガラス拭きもやりました。

玄関の大ガラスに、窓ふきスプレーを吹き付けます。
「○△□」はいつものお約束。
江戸時代末期に博多で活躍した、仙崖義梵(せんがいぎぼん)という臨済宗の和尚さんの手になる書の、マネっこであります。(でも、左右が逆ですね-汗)
オリジナルは東京の出光博物館にあるようで、こちらでご覧いただけます。
「○」の字は「円相(えんそう)」といって、禅では好んで用いられる言葉です。
岩波仏教辞典には、「欠けることのない絶対的な真理や境地を象徴的に示したもの」と解説されています。
うーん、しかし、抽象的な言いようですよね。
ところで、「オレは何のために生きているんだろう」とか、「生きている意味って、何かあるものなんだろうか」とかいう問いかけを、耳にすることがあります。
そんなとき、禅はわりとそういうものを吹き飛ばしてしまって、「ほらほら、そんなことより、なんてったって今生きてんだから生きなさいよ、生きて生きて生き切りなさいよ」というような答えをするんじゃないかと思います。
というのは、生きている意味なんてあろうがなかろうが、または自分なりの答えを持ってても持ってなくても、朝は変わらず東から日が昇り、夕べには西に沈み、そして1日分トシを取ってしまう、、ということには変わらない、、という考え方があるからです。
必要以上に悩むヒマがあるなら、もっとすることがあるんじゃないか?? という提案ですね。
たとえば「ほかの誰でもない、ほかの誰とも代われない自分に気づいてみろ!」とか、「そんな自分には、生きて生きて生き切ってみなくちゃ会えねえよ!」みたいな言いかたをします。そこを表現するのに、円相が用いられたりするのかなぁ、、という気がします。
うーん、なんだかさらにわからなくなってしまいました(笑)

しょうがないから、円相はムスコズに消してもらいます。ではまた。