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そのきさらぎの望月のころ

「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」

という歌は、平安末期(源平合戦のころ)に活躍した歌人の西行法師が、お釈迦さまの涅槃になぞらえて詠んだものと知られています。きさらぎの望月とは旧暦の2月15日。新暦では4月初めくらいなのかな? 花とは桜のことですしね。
現代のお寺では、その2月15日(地方によっては月遅れ)という日を涅槃会にあて、その日亡くなったとされるお釈迦さまを、慕う1日としています。

花の下、、というと、伊丹十三監督の『お葬式』も浮かびます。
ラストシーンで主人公役の山崎努が、火葬場で桜吹雪を見て「オレは春に死ぬことに決めたよ」っていう感じのセリフを言ってますね。日本人だからかな、私もその心情はわかる気がします。

 
まあ、自分の死にたい季節を言う人はそんなにおられないかな。私がよく耳にするのは、「まわりに迷惑をかけないで死にたい」という言葉です。
これを美徳と取るのか、はたまた、周囲との断絶を思わせる悲劇と取るのか、それぞれ事情はあることでしょう。
それでも、最近よく聞く「死をタブー視してはいけない」という死生学の主張にとっては、ひとつのとっかかりとなる気持ちかも知れません。

おまいり先で、「和尚さん、できれば子どもに迷惑かけて死にたくないねぇ」とおっしゃる方に、
「ああ、私もそう思いますよ。でも、迷惑かけないで死ぬなんて出来ないですよね(笑)」と返すと、相手も苦笑してしまわれます。

 
かのお釈迦さまだって、死因は食中毒かと伝えられていますが、そういう意味ではかなりお弟子さまたちの手をわずらわせたこともあったのかなぁ、、とも思ってしまいます。手塚治虫の『ブッダ』は、そのあたりうまく表現している気がしますね。

コメント:6

tenjin95 2009年2月15日 21:23

> 管理人様

トラバをいただきまして、ありがとうございます。

「迷惑を掛けて死にたくない」というセリフ、拙僧はこれが、とんでもない傲慢だと思うんですね。ご指摘のように、迷惑を掛けない死、或いは葬儀など無いです。つまり、最近の人、特に団塊の世代の人は、「迷惑を掛けて良い事」と「迷惑を掛けて悪い事」の違いが付いていないように思うのです。例えば、子供が育つとき、様々な苦労を親がしますが、それは「迷惑」とはいいません。人の死も、それと同じですよね。

shosen 2009年2月15日 22:00

tenjin95さんありがとうございます
はい、これはおっしゃるとおりですね。
「迷惑をかけたくない」と口にする人も、おそらくはそれが不可能であることにうすうす気づいてはいるのだとは思います。
それでも、そう言ってしまう何か。。
これは、やはり大きな問題であろうな、、と思います。
これは宗教だけでなく、教育や経済など、社会全体を覆うものかとも思います。

青龍寺和尚 2009年2月16日 05:54

「迷惑を掛けて死にたくない」…何と傲慢なと思います。
死する時は、誰にも迷惑をかけて…否、お手を煩わせる事で、親族や周りの者等に自身が亡くなった事を了解せしめる事に成るのですから。
確りと煩わせて、生きていた事、あちらに行く事、死する事を理解させるのです。
ちょいと無茶書きするのなら、我々生きているだけで、彼方此方に迷惑を掛けて居るのですから…モット謙虚に生きる事を知る。其れが大事なのではないでしょうか。

shosen 2009年2月16日 21:58

青龍寺和尚さんありがとうございます
これは逆にまた、「迷惑をかけたくない」と思わせる周囲の問題でもあるな、、と思います。このセリフを聞くと、う~ん水くさいな~、、と思うのですよね。
傲慢さの裏に、孤独みたいなものが隠れていそうに思えて。

団塊くらいの方で「長生きしたくない」とおっしゃる人もいるんですよね。
これはさすがにびっくりしましたけど、かといって、もちろん積極的に短命を指向されているわけではないし、こう言わせてしまうものって何なのかなぁ、、と考えてしまいますね。

大風呂敷 2009年2月20日 09:05

田舎の年寄りの言う「迷惑をかけたくない」は、「ぽっくり」なんだと思います。長患い、寝たきりで身内に負担をかけることを避けたいという気持ちもありますが、本人自身が長患い、寝たきりの苦痛を味わいたくない、という面も多分にあるのではないでしょうか。昔から「ころり観音」「ぽっくり地蔵」というのもありましたから。
こんな田舎も段々とドライになってきて、残された身内に葬儀や供養の手を煩わせたくないという意味の「迷惑をかけたくない」という風潮も出てきています。こういう「迷惑をかけない」ことが美徳になるということなのでしょうか、「困ったときはお互い様」的相互扶助の関係をを排除してしまっているように思えて仕方がありません。耳障りのいい言葉でコミュニティーとの関わりを自ら拒否しているのだと思います。

shosen 2009年2月20日 09:52

大風呂敷さんありがとうございます
そうですよね、ぽっくり逝きたい、、とは、おそらく多くの人が望まれることでしょう。

今は、言わば身内だけでしてしまえる環境がありますから、ビジネスライクに事を運べばずんずん行っちゃいます。
なので、たとえば災害などのほんとうに困ったときに、その分のしんどさがぐっと来るのかも知れませんね。「困ったときはお互いさま」というのは、そういう事態にならないと心底わからないのかも知れません。

「迷惑をかけない」ことはムリなので、とりあえずは、「あなたになら迷惑をかけられてもいい」関係をお互い築こうとするのは美徳と言えるでしょうか。

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